FC2ブログ

2018年7月8日 大河ドラマ「西郷どん」の舞台になった伏見界隈を散策する会 に集う

わが国は徳川家の200年余り続いた鎖国により
オランダと中国を除き、諸外国との交渉を断ち

欧州諸国の「文明の発達」に背を向けて続けた
やがてメリケンの来航により開国を迫られ

近代国家への道筋をたてるために
幕末の志士たちが懸命に生きた伏見の町

これらの歴史模様が残る町「伏見界隈」を散策しました

「記録的短時間大雨情報」「土砂災害警戒情報」が
気象速報で頻繁に報じられた前日とは打って変わり
青い空が眩しく暑い夏の日・・
近鉄 桃山御陵前駅に集合しました

いつもの駅前と違って観光客が目立たない
駅前から伏見城方向  「御香宮神社」の鳥居が見えます
桃山御陵前上w

駅前から大手筋商店街方向  遠くに大手筋のアーケードが見えます
桃山御陵前下w

さっそく散策、・・
行程は下図 半径500m ぐらいの範囲です

伏見行程地図

前日までの雨で十石舟が運行しているのか?
濠川 ( ほりかわ 宇治川派流 うじかわはりゅう) の弁天橋まで行くと、やはり欠航!

係留されていたので濠川に下りてパチリ
やっぱり乗りたかった十石舟

十石船

濠川沿いは増水していた為、川の臭いがある

濠川の歴史は1594年 (文禄三年) 豊臣秀吉が
伏見城築城にともなう建築資材運搬のため

宇治川の流路改修工事によりつくられた内陸の河川と港です

濠川に沿って問屋、宿屋、酒蔵が建てられ
米や薪炭、できた酒などを運ぶ小舟が往来していた

因みに伏見の酒作りの始まりは
稲作が伝わった弥生時代からです

伏見港の中心地は現在の京橋付近でした
月桂冠旧本店のある付近は馬借前 (ばしゃく 馬の運送業) として

大坂からの旅人や船から荷揚げされた物資が
馬や荷車に積み替えられ陸路を行くため

中継基地として繁栄を極めました
尚、このあたりを粹天浜 (弁天浜) とも言われています

現在も濠川沿いは柳に酒蔵が映える往時の佇まいを残して
淀川三十石舟をはじめとする大小の観光船で賑わっています

舟乗り場からすぐ、中国風の竜宮門がある長建寺

長建寺

竜宮門から参道を真っ直ぐ、正面にある本殿にお参り

長建寺境内

伏見の歴史は豊臣秀吉が1597年(慶長2年)に伏見城を築城して、たいへんな賑わい
徳川3代まで使われ、1619年(元和5年)に廃城されてた

天守閣は解体され二条城 (徳川家の京のすまい) 建築に再利用されてからは
次第に伏見の町は衰退していきました

その後、地元豪商らが伏見復興を夢に
伏見奉行十三代目の建部内匠頭政宇 (たけべたくみのかみまさのき)
嘆願しました

建部政宇は1699年 (元禄12年) 、宇治川派流を開拓するとき
深草大亀谷にあった即成就院 (そくじょうじゅいん)

塔頭・多門院を分離して寺を建立し
寿を願いと部姓の一字と名づけた

建部政宇は伏見復興の際、中書島の埋め立て
寺の門から北側は歓楽街として栄え

遊郭や飲み屋、旅籠などを集めた
奈良、大坂へ繋がる宿場町として

また淀川を遡って来た十石舟や三十石舟の港町
荷を積み降しする荷夫や商人、旅人らで大変な賑わいを

建部政宇の在任期間の1714年 (正徳4年) まで
伏見は日本一の大都会であり、京の南の要衝でした

長建寺は淀川を往来する廻船の守護神として
また遊郭で働く遊女の技芸上達の神として信仰を集めました

また、町民や舟で働く人たちへ
境内の梵鐘を撞いて時を知らせたとされ
「島 (中書島 ちゅうしょうじま) の弁天さん」と親しまれていました

宇治川派流に戻り、濠川べりを寺田屋へ

伏見疏水2w

しばらく歩くと、寺田屋近くの蓬莱橋が見えてきました

伏見疏水

寺田屋の前で

寺田屋前で

寺田屋の幕末当時の建物は
鳥羽・伏見の戦いによる兵火で焼失し

現在の建物は、その後、当敷地 (下記の公園) の西隣に
建てられ1905年 (明治38年) に登記されものです

再建されましたが、なかなか風情のある佇まい
木造建築のすばらしい特徴を見せています。

すだれの汚れかげんがいいですね!

寺田屋隣の公園

この寺田屋で起こった薩摩藩の「寺田屋騒動」について説明します

薩摩藩には、藩主島津久光を中心とする温和派
勤王討幕を主張する有馬新七 (ありましんしち) 急進派がありました

島津久光は急進派の動きを押さえようと
兵千余名を率い京都へ入洛しようとしていました

これを知った有馬新七ら急進派同士は1862年 (文久2年) 4月23日
(関白) 九条尚忠 (ひさただ)(所司代) 酒井忠義を殺害しようと
薩摩藩の船宿寺田屋に集まりました

島津久光は藩士奈良原らを派遣し有馬新七らの計画を
断念させようと説得に努めましたが
西郷の願いもむなしく失敗

遂に乱闘となり有馬新七ら7名が斬られ
2人は重傷を負い翌日に切腹しました

この詳細は公園内、下記 「寺田屋騒動の碑」に記されています

寺田屋騒動の碑30

月桂冠大倉記念館 既に250万人が訪れた施設 伏見酒の老舗です 
大倉さんが月桂冠の社長さんです

月桂冠大倉記念館

1637年(寛永14年)創業381年の老舗の
酒造メーカーらしく伏見の街に溶け込んだ

黒塗り木塀の落ち着いた佇まいです 
京の雰囲気がある記念館です

見学料400円(純米吟醸酒180cc付き)です
見学を終えてから、珍しい酒を少量試飲ができます

お庭では伏見の美味しい水がいただけます
酒蔵に囲まれた誰もいないお庭はとても雰囲気が良い

月桂冠工場内部

京都市の有形民俗文化財に指定されている
酒の器や酒造用具類も展示してあります

お酒作りをわかり易く説明されて
使い込まれた道具が展示されています

陳列棚の奥に十升瓶3本
手前の1升瓶と比べたら、その大きさがわかります

飾りだな30

結婚式で1斗樽 (中身は半分9リットル一升瓶5本分) の鏡開きをおこない
柄杓 (ひしゃく) で一合枡に・・、すっかり飲み干し
これが恐るべし親戚付き合いの始まり・・

酒樽

こんな「ふっくら美人」のポスターを見て思い出しました
昔、おやじに「酒 こおてこい!」と言われて

酒屋に行くと、きまって立ち飲みできるところがあり
こんなポスターをよく目にしました

ポスター30
  
入口の受付け前です
敷石の土間、いい感じですね!


受付前30

とても柔らかい丁寧な物腰の接客や
展示方法などを見ていてわかります
月桂冠さんのまじめな姿勢が感じ取れます

わたしたちが試飲を済ませ
お土産物コーナーに進んだ頃には
かなりの人が増えてきました

静かな雰囲気の中、ゆっくり見て回れて
たいへんよかったです

展示品を見ていると、100年以上タイムスリップしたような
異次元の感覚になれます

お昼近くなり、お待たせしました
こちらが、やきとりの老舗 「鳥せい本店」です

鳥せいc30

近鉄 京都線 わざわざ途中下車するぐらい
やきとりが美味しい・・・

しばらく「やきとり定食」 (ランチのみ) の存在を知らずに
「やきとり盛り合わせ」とビール・・
詳細は『鳥せい 本店』をご覧ください

1時間半ほど、昼食と休憩に

これから、いよいよ 幕末の志士たちが
命を掛けて戦った『鳥羽伏見の戦い』の地に・・

「鳥せい本店」からすぐ、旧幕府軍の会津藩が京宿舎を
構えた 会津藩駐屯屋敷跡があります

会津藩駐屯跡

伏見は鉄道が敷設され京都駅ができるまで
「京都の南の玄関」でした

西郷隆盛らが大活躍した『鳥羽·伏見の戦い』から
『戊辰戦争(ぼしん)』へ、やがて・・『江戸城無血開城』へ

1867年 (慶応3年) 大政奉還によって
徳川慶喜 (一橋慶喜 ひとつばしよしのぶ) は政権を天皇に返上された
しかし、いまだ幕府の力は絶大でありました

つまり、幕府は戦って敗北し劣勢になったのではなく
徳川家は日本一の地主で財産もまだまだありました

そこで薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視 (いわくらともみ) らは
徳川慶喜の辞官納地(内大臣の辞職と領地の返納)を決定し

新政府から旧幕府の勢力を徹底的に排除する方針をとりつけます
これらの決定に徳川慶喜は従い、京都から大阪城に引き上げるのですが

腹の虫が治まらないのが旧幕臣や会津藩、桑名藩の人々でした

さらに、西郷隆盛は薩摩藩の藩士ら命じて
1867年 (慶応3年) 10月ごろから江戸で放火や強盗を行うなどして
旧幕府勢を挑発しはじめます

その挑発にのってしまった江戸警備の庄内藩士らが
1867年 (慶応3年) 12月25日に江戸薩摩藩邸を焼き討ちにする事件を起した

これをきっかけに、大坂城にいた旧幕府勢も
京都に向かって兵を上げました。翌年1868年1月3日の出来事です。

新政府軍
      薩摩藩  西郷隆盛、大久保利通
      長州藩  品川弥二郎
      土佐藩  板垣退助

旧幕府軍  竹中重固 (しげかた)
      幕府陸軍
      会津藩  佐々木只三郎 (ささきたださぶろう)
      新選組  土方幾三 (つちかたとしぞう)
      桑名藩

実はこの戦いは、薩摩藩と旧幕府側の勝手な戦いです
つまり、朝廷には関係がありません

しかし、岩倉具視が官軍の証である「錦の御旗 (にしきのみはた) 」を
薩摩藩の大久保利通や長州藩の品川弥二郎に制作を指示

御香宮神社 (ごこうのみや) に新政府軍が、その近く、伏見奉行所(桃山御陵前駅から南へ約300m)
幕府軍が本陣を設けた

御香宮神社c30

この神社の本殿、すぐ左手に「御香水」が湧いています
境内から「香り」のよい水が湧き出ていることから

862年の平安時代に清和天皇から「御香宮」という
名前を賜わりました
もちろん「日本名水百選」のひとつです

伏見の水25

幕府軍15000名に対して、薩摩藩、長州藩ら新政府軍は5000名ほどで
当初は一進一退の攻防が繰り広げられていました

しかし、1月5日に「錦の御旗 (にしきのみはた) 」が新政府軍に翻ると
戦況は一気に新政府軍優勢に転じます。

旧幕府軍としては、天皇の象徴に
向かって弓を引くなんてできませんからね

指揮は下がるばかり・・・
また、どちらにつくか態度を曖昧にしていた諸藩も

天皇の敵になることを恐れて新政府支持を次々に表明
天皇への忠誠を示すために新政府側に寝返る藩も続出します

そのために徳川慶喜は突如、大阪から江戸に戻ってしまい
幕府軍は自滅するように大敗しました
 
この流れがやがて・・勝海舟と西郷隆盛の会談から
篤姫 (あつひめ) と和宮 (かずのみや) が関わった
『江戸城無血開城』まで繋がっています


コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

OB集いの会

Author:OB集いの会
.
西日本豪雨及び大阪北部地震で被災された全ての人へ、心からお見舞い申し上げます

会員:飛び入り参加歓迎 65才以上が主力メンバーです
掲載写真:肖像権保護の為に加工しています。鮮明な写真はコメント欄に記入し送信ください
又、集合写真の送付は参加者のみとします

訪問者数